昭和47年11月26日 朝の御理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに八区分変えて退屈してやめれば掃除は出来ん。それでやはり水は濁っておる様なもので、信心も途中で辞めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで一心にまめで繁盛する様元気な心で信心せよと。」
信心をさせて頂く者の心得として、こんなに行き届いて教えておられる御教えはない様に思いますね。信心をさせて頂く者が本当に幸せになる。それこそまめで繁盛するおかげの頂けれる所まで、元気な心で信心せねばならん。お互いがなぜか願いとしておる。元気でもありたい。でもまめでもありたい。同時に家もだんだんと繁盛して行くおかげを頂きたいというのは、誰しもの願いであります。
ですから、勿論それは、健康であるとか、家が段々繁盛しておるとかと言うだけでなら、人間の幸せ、人間の幸福と云う事ではありません。家は信心は無くても、家族皆健康で、しかも、商売なら商売がどんどん繁盛しておるという店は沢山あります。けれども、それで人間の幸福であるという事ではありません。それで、その家は幸せかとは限らない訳です。ね。繁盛して行けば繁盛して行く程問題は大きくなって参ります。健康であれば健康である程、その健康を言わば乱用いたします。
そして言うなら、家庭の悲劇の元を作ったり致します。健康であるが為に。ですから、何処までも私どもはその、言うならば、病気災難は根の切れるまでという信心。これはもう信心に寄らなければ出来る事じゃない。井戸がえをするのに七分目、八分目で例えば止める。退屈して止めれば水は何時迄も濁っておる。そういう道理のものだから。昨日道理に合う信心とは、という事を頂きましたですね。
いわゆるそういう道理なんだ。ね。だからひと事ふた事おかげを頂いたから、受けたからと言うてその、それで人間が幸せになるのじゃない。それこそ元気な心で信心せよとおっしゃる。元気な心で信心をさせて頂いておる内に、いわゆる信心が分かるのです。お徳が受けられるのです。そのお徳を受けさせて頂いて、家が繁盛に成り、健康になるというので、始めて人間の幸せという事が言えるのです。ね。だから健康であるとか、ただ繁盛しておるというだけで人間の幸せはありません。
でもどんなにお店が繁盛しよっても、健康であっても、もう親子兄弟ヤリヤリやって喧嘩する様な家庭であったら、幸せじゃないでしょうが。そしてこの財産は、あれには譲らん。かれにはやらんと財産がある為に、親はその為に苦労いたします。ですからこれは今日のここの御理解の所をもうどうでもです、私共が信心辛抱させて頂いて、そして井戸は清水に成るまでこんこんとして、有り難い水が湧いて出る様なおかげを頂いて、元気な心で信心させて頂いておる内にです。
私共の心の中って云う物のが清められ又は改まり、ね、清められする内です、信心の徳が受けられて、信心をいわゆる物の見方考え方と云う物が変わってしまう。所謂人間が変わってしまうのです。物の見方考え方が変わって来る。それはただ見方が変わるというより、本当な事が分かるという事なんです。ね。本当な事が分かって来るからあれもおかげ是もおかげと、お礼を申し上げなければならない事ばっかりになる。
そういう信心生き方がだんだん身に付いてきて、しかもそれが、辛抱し抜かれておるうちに、井戸は綺麗に清水になるというおかげを頂いた時にです、そこではじめてままで、言わば健康で、家も繁盛して行く、子孫も繁盛して行くというおかげを頂いて、始めて人間の幸福という事が言える訳です。昨夜の御祈念の時の、二番目の息子であります光昭が当番でした。で御祈念の後に、皆さんにお話を聞いて頂いておりましたんですけど、お話を頂くと阿倍野の先生ですね。
阿倍野の親先生は、信心をしておれば一年一年有り難い事が多くなって来ますという、阿倍野の先生のお言葉を引用してからのお話をしておりました。信心をしておれば誰でも、言うならば長年何十年信心しておれば、有り難い事が大きくなって来るかというと、大きくなってないという事実の方が実は多いのです。それは阿倍野のに先生にして始めて言えれる事である。
信心をしておれば、有り難い事がだんだん増えて来るという。だから年を取る程だから有り難うなるという事である。じゃそういう信心とは、例えば、今日私御祈念中にそれをしみじみ感じたんですけれどもと言うて話しておりましたが。ね。一日も私それぞれの信心によって、私のなりに精進され努めさせて頂いてです、始めてたとえば夜の御祈念をさして頂く時に、本当に今日もおかげを頂いて有り難う御座いますと言うお礼が心から言えれる様な信心が、ね。
積もり積もり溜まって段々有り難い事が増えて来るのだと言う様な事を言っております。今日はまあ光昭の言葉、まあ今日は、何とはなしに神様へ向こうた一日であった。当番に当たっておりますから御祈念をさして頂いて、御祈念の中に今日もおかげを頂いて有り難いと思う心が湧いて来たと言うのです。だからこういう日々がです、毎日続いて初めて信心をしておれば一年一年有り難うなるのであり、信心をしておれば段々有り難いと思う心が多くなって来るんだという、云う様なお話をしております。
ですから、また私こちらからあと一口それに付け加えさせて頂いた事でした。所がですね、例えば一日なら一日を締めくくらせて頂いて、ご神前に出ても何にも有難い事も沸かない。所謂無味乾燥と云う様な、例えば事ではです、所謂信心しておればだんだん有り難うなるという事も、信心をしておれば有り難い事が増えるという事にならないのはどういう事かと言うと。お互いが心に背いた生活をするからだと。
所謂背心の生活ね。心に自分の心に背く。はあこんな事したらいかんと思うばってんか、信心しよってからこげなん思い方をしちゃいかんと思うばってんからと言いながらです、一日を怠慢になったり、または信心をしない者でもしない様な事を平気でやってのけたり。例えば商売をさして頂いておる者がです、一つもお客さん本意でなく、ただ自分が儲かりさえすればよかと云う様な生き方で、例えば商売を致したと致しましょうか。ああ今日もおかげを頂いてという心が起こって来ないです。
神様が与えなさらん。有り難いと言う物を。有難いと言うものは自分で有り難く、有り難くなろう、有り難くなろうと思うただけじゃ有り難くなれるもんじゃありませんよ。有難いと言うものは何とはなしに、有り難くなれると云う物は、神様が与えたもうのです。有り難いという心を。ですから神様の心に背かせて頂くから、神様が有り難いと云う物を氏子の心に移らせて下さるのであり、分からして下さるのですから。ね。いわゆる背心の生活をしておって有難いものが頂けるはずはない。ね。
有り難いという言わば反対の有り難くないというのはです、ね、必ずその日一日、背心生活であったからだと知らなければいけない。ね。勿論そこから真剣なお詫びも出来てまいります。詫びれば許してやりたいのも親心とおうせられますから、心から例えば今日一日の怠慢であった事、無礼であった事をです、心に背いた事を平気でやって来た事を本当に反省させて頂いて相済みません。明日は有難い一日であります様にと云う様な祈りをさして頂く所からです。
心の中に許された心という安らいだ心が頂けるんだと云う様な、言う風なお話を聞いて頂いた。昨日婦人会の後に研修会で御座ましたから、研修会で色々の話をさせて頂いたり、聞かせて頂いた訳ですけれども。もう本当だんだん、あの信心の話っていうのは、もう立とうかちゅうごとなってから良か話が出て来るんですね。ですからもう随分遅く、5時半にあったでしょうか皆さん。
それであのもうあの一きり、切を付けさせて頂こうというので、お茶を皆でておりました、でお茶菓子も何にも出ておりませんでしたから、ね。豊美先生お茶菓子はなかじゃろうかと、久富先生に言うてから、神撰室で見えたら何か貰ってらっしゃいって言うて言いましたから、お菓子の折を持ってきておりました。そしてそのお菓子を最中で御座いましたが、最中を皆んなこう一つずつ配らせて頂きましたら、丁度きっちりでした。ほんのそのお茶が出るという寸前に。
2人の方が遅くなるからご無礼して帰ると言うて帰られた。そういう時に私がまあちょっとお茶でも頂いて帰りなさいと言うて引き止めておったらどうでしょう。2人だけはお茶菓子は足りない事になった。まあ是は、合楽の場合何時もそういうあの、神様の言うなら一分一厘間違えのない働きと云う物をそこに感ずる訳です。いわゆる昨日のその御理解で申しますならばです。
万物の霊長だから万物に道理に合う信心と云う事は、それこそ高い所から低い所へ水が流れる様にというのがもう一番道理に叶うた生き方であると思う。ね。高い所から低い所へ水が流れる様に。丸い物の中へ入れば丸、角いものの中へ入れば、その人の生態というのはそういういわゆる、水の生態というかそういうあり方こそ一番道理に合うた生き方なんだ。だから此処で言われる成り行きを大事にして行きなさいよという生き方は、いかに道理に合うた信心かという事が分かりますね。
道理に合うた信心をさして貰わなければ、道理に合うたおかげになってこない。不自然なおかげになって来る。それでお茶を頂き終わってからまあ何時もの事ですけどね。こういう例えばこれは合楽全体に、合楽の信心信奉者言わば私を親先生と言うて下さる程しの人達の上にです、是と同じ働きが皆さんの上にも日々あってるんですよと云う訳なんです。ね。一分一厘間違えのない神様の働きの中にです、痛い事もあれば痒い事もある。腹の立つ様な問題もあれば、情けないと思う様な問題もある。
一分一厘間違えのない働きの中にあるのです。ですからそれを合掌して受けて行くという生き方が一番本当だという事が分かるのです。それであれを読ませて頂いておりましたら、あの、佐田のおばあちゃんがお話をしておられました。昨日はお許しを頂いて福岡の相撲見物にやらして頂いた。二枚ほど札を貰っておりましたから、同じ御信者友達であります石橋さんをさそってから、勿論朝お参りをしてお取次ぎを頂いておかげを頂いた。昨日研修会のまあ中心テーマになりましたのが、楽をしよと思うな。
楽はさせて頂かないけん自分で求めて楽をしようと思うな。ちょっと今度は福岡に相撲が来るからいっちょ相撲ば見に行こう。というのが是は楽をしようという心なんです。ね。所が行こうとも何とも思うてないけれども、よそから例えば招待券を頂いたと。というのは是はもうしようとは思わんけれどもさせて頂くのです。その上例えばお取次ぎを頂いてお願いして参りましたら、もう行きから帰りまでももう万事万端の上に神様のご都合お繰り合わせの中におかげを頂いたという発表をしておられました。
皆さんもご承知の様にお相撲を見物すると、もう本当に一桝の中に4人座らなければならん。そりゃあもうこげんして座る。大きい人が座るならもうどんこん合い擦りして応えんごとあるけれどもです。もうそりゃあもう満場その一杯でした。所が私共が参りましたその桝の中には二人の方がですね、とうとう最後まで見えなかった。それでもう私も石橋さんも足を投げ出してからあの、楽しい思いをさせて頂いたと言うお礼であった。ああ今日はおかげ頂いたおかげ頂いたと思うて。
まぁあの近所をちょっとこう、まあ出口の分からんごとある訳ですね。田舎から参りますと。福岡あたりはあそこでウロウロしよりましたら、丁度そこに桜井先生が通り合わっしゃったって。合楽のどうしてこげんとこ桜井先生みえとりますかと言う様な事だった。桜井先生に、あの福岡が詳しゅうあんなさいますから、あの案内して頂いてまあ帰らして頂いたと言う、もう本当に行きから帰りまで神様の成程ご守護の中にあった一日であった。成程許された一日であったと。
もう本当に有り難い思いで一日を過ごさせて頂いたと言うのです。そういう日々おかげを頂かせて頂いてです、私は初めて神様のご守護の中にある一日。神様のお守りの中にある一日であったとと言う時に、初めて今日もおかげを頂て有り難う御座いましたというお礼が心から言えるのではないでしょうか。成程私共が水が綺麗になる。汲み上げても、汲み上げても汚いごもくが出てきたり、臭い様な物が上がって来たり、ビン切れや茶碗切れの様な物が上がって来たり。
いろんな物が井戸の中に井戸ざらえをする時には、井戸ざらえするばっかり出てまいります。汲んでも汲んでも濁った水と言う時にです。私共がヘトヘトする様になりますけれどもです、ね、この事はそうなのですけれどもです。神様のご守護の中にこういう間違えのない。例えて言うならば、金銭なら金銭に難儀をいたしておりま。病気なら病気に難儀を致しておりますけれども、一心に元気な心で信心さして頂いておると、その病気の事は一向に治りよるごたるふうじゃなか。
金銭は今日も大変窮屈な一日であったと言うてもです。ね。私のまあここでは私って言わなしかたがないから、これは金光様の信心誰でも同じ事でしょうけれども、合楽に御神縁を頂いた人が、私の取次ぎによって日々を生活さして頂く所にです、この事は自分の思う様になっていないけれどもです。その周囲、周辺にね、もう神様のおかげと言わなきゃおられない事が起きて来るのです。信心さして頂きよったら。
だから、その事もまた神様の一分一厘間違えのない働きに有るからと思うから元気な心が出るのです。ん、この調子で行きゃあ清水になる迄のおかげが頂かれるぞ。いよいよ病気災難の根は切れるぞという勇み立った心が生まれて来るのですよ。ね。そこん時です、ね、御理解57節にあります、『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ』とそう対して本当に楽という事でもないでしょうけれども、キツイ時にはキツイけれどもです、そのいわゆる神に縋っての辛抱なんです。
杖に縋っての辛抱なんです。ね。キツイ。
けれども金光様、生神金光大神、親先生と。その神様にすがっての辛抱なんです。その事は苦しいのです。苦しいけれどもすがっての一日を締めくくらせて頂く時に、もう今日も、もう本当に神様ヘトヘトで御座いました。もう息が切れるほどヘトヘトでした。きつう御座いましたけれどもね、朝から生神金光大神様の御名をとなえさせて頂いての一日でありました事がです、今日もおかげを頂いて有り難う御座いましたと言うお礼が出て来るとじゃないでしょうかね。
そうなんです。私の修行中なんかそうでした。福博の言わば町をです、もう自転車も無くなっておった、商品も無くなってしまっておった。僅かばかりのタオルが残っておりましたから、まあ小脇に抱えられるくらいのタオルでした。それを一日抱えて福博の町を歩かせて頂きますけれどね。もうその日はもう大変雪解けのズチャズチャする様なあの、写真に出ております、まだあの靴をはいておりました。靴はこんなにもう口をあいとる様な靴を履いて、福博の町を歩いて回るのです。
それがですね、もうその日私不思議だった事は、もう商いが十のものなら九つも出来てるんですよ。なら貰いましょう。ああおかげ頂いたと思いよった。愈々お金ば払うだんにならっしゃると、その確かに此処にお金があったつがお金がなかったとかね。いややっぱ頂こうっち言いよったばってん辞めとこうとかと。もうそれはもう九ぐらい迄いって、全部こう突き放されて行っている様な感じでしたね。
私はあのその日に是は、商売と云う物は、もう絶対どんなに詳細があってもですね、詳細だけで出来る事じゃない。神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと言う事も本当に実感しましたね。もう一日もうあの、歩いて参りますからもう、靴の中は雪解けの水でもうビチャビチャです。足を洗うて御神前に出らせて頂く時です。もう本当に、今日はもう本当にもう一日歩いたばってんタオル一つ売れじゃったと。
と言う様な物ではなくてです。今日も本当に、結構な修行をさせて頂いて有り難いのが一番強かったです。ね。生神金光大神を杖について、金光様、金光様と博多の町々のいわゆる角角をです、曲がるにも進むにもそれを祈り願ってからの一日だったからなのです。だから、どんなに自分の思う様にならないきつい一日でありましてもです、生神金光大神を唱え続けての一日であるならばです。
今日もおかげを頂いて、いや、結構な修行をさせて頂いて有り難う御座いますと言うのが、それがもう普通に売れた、売れたと言う時よりも有り難いものが必ず頂けるのです。ね。神様から言うならば、本当に今日はわざと商売をさせなかった。言わば神がかえって邪魔をする様な状態であったけれども、よう辛抱してから修行してくれたねという神様の喜びがか返って来るのでしょう。ね。
それが有り難い。神を杖について、神様にお縋りし抜いての一日でありたいと言うのです。そこにです例えば夜の御祈念に、神様の前に出らせて頂いた時にです、今日も結構な修行をさせて頂いて有り難う御座いましたと言う。有り難う御座いました。そういう日々。ね。又はそれとは反対にです、本当に万事万端タイミングようおかげを頂いた。おかげで商売が繁盛いたしました。この事も成就いたしましたと言う様な場合も勿論あります。だから、どちらに転んでも有り難いとお礼の出る様な
(途中消えてます)
頂いて初めて、清水に成る迄のおかげも頂かれると同時にです、阿倍野の先生が仰る。信心をしとれば一年一年、年とる程有り難い事が増えてくると言う事はです、又信心をしておれば一年一年有り難うなって来ると言われる、有り難うなる信心とは、そういう信心からしか生まれて来ないと思うです。こげなんこっちゃいかん。こげなんこっちゃいかんと思うばってんと言った様な一日でですね、私有り難い信心が頂けるはずがない。ね。其処ん所を神様にお縋りさせて頂いて、所謂神を杖に突いての信心。
そういう中からです、ね、おかげをを頂いてまめで、いわゆる繁盛する様に元気な心で信心せよ。必ず体はまめになる。家は繁盛して来るおかげを頂いた時に、人間の幸福と云う物がそこに約束されるのであります。但し信心抜きにして健康だから、お金はどんどん儲かりなさりよるから幸せかと言うと、けしてそうじゃない事実をね、お互いいっちょ知らなければいけません。
繁盛しておれば繁盛しておる程意見が食い違う。お金が残れば貯まる程、ね、あの子供にやろうか、この子供にやろうか。もうあれにもやるごとない、是にもやるごとないと言った様な親子が血を血で洗う様な財産がある為に、そういう生活であったら、いかにまめで繁盛しておっても人間の幸福とは有り得ないでしょう。ね。七分八分目で、もうそれこそヘトヘトするようになる。
もう是で辞めようかという時もあるけれども其処ん所を元気な心で信心させて頂く様なその信心。神にすがっての信心させて頂く所から今日も結構な修行をさせて頂いて有り難いと言った様な、結局は有り難いという答えが出て来る日々でありたい。そこから繁盛のおかげになる、健康のおかげになり、井戸は清水に成る迄のおかげを頂いた時に、その家の幸せがある。人間の本当の幸福と言うのがあるのでありまして。その本当の幸福をこい願うてからのお互い信心でなかならければいけないと云う事です。